深呼吸をしたあとで、

さまざまな心を、そのままに。

ふたりである、という事実。

 『嫌い』という感情。基本的に私は人に対してそれをもたない。勿論『合わないかな?』『苦手だ』と感じる人との関わりはあるけれど、心底嫌いだと思ったことは、極々一部を除いて今までの人生でほぼ99%と言っても大袈裟でないほど――ない。明日の陽を見ることをやめてしまおうとしていた日々の、その原因となった人々に対してですら、そうなのだ。これはまぁ私の中の何かがおかしいのか、はたまた他人に興味がなさすぎるだけなのか……自身の人間的欠陥かもしれないそこのところは今はあえて棚にあげることにする。

 そんな自分が唯一、嫌悪感に近い感情をもったのが、いわゆるアンチ(&オンリー)と呼ばれる方々だった。普段なら気に留めないのだが、ふとした瞬間……自分の心が弱った時などに、人をどうしても受け入れられないと思ってしまう。

 何故なんだろう、と考えてみたのだが、アンチと呼ばれる方々が彼らの『軌跡』を否定している事実がどうしても辛いからだと思い至った。

 

 1991年に光一さんと剛さんは出逢った。今年で25年。

 いつだったか光一さんもこんなようなことを言っていたが、離れようと思えばいつだって離れる機会はあったのだ。にもかかわらず25年間を共に闘ってきたという事実……その意味。

 彼らふたりは誰が何を言おうと『KinKi Kids』でしかなくて、ふたりで生きてきた。勿論、様々な出逢いと別れはあっただろうけれど。KinKi Kidsは二人組であるが故に、負担は半分。一人が倒れてしまうと二人分の重みが相方の肩へと圧しかかる。傍から見ていて「あぁ疲れているのかな、しんどいんだろうな」と思う時期があった。今もある。20代の頃からなどは妙齢の男性同士、そっけなく見える時もあった。ずっとベッタリなわけがない。

  個人と個人が出逢ってデビューをした個性的なふたり。だからこそ大人になればそれぞれのやりたいことが重ならないことだって、ある。それで当たり前なの に、そこだけを突いて不仲とか離れろだとか、他ならぬファンがいまだに言っている現実が哀しい。『相方なのに迷惑』をかけられた? それがどうした。そんなの生きてれば誰だってお互い様だろう。それに本当に迷惑だと思っていたかなんて誰に分かる? 何故決めつける?

 KinKi Kidsには光一さんと剛さんにしか分からない日々があって。それがどんな苦悩や疲労を伴っていたとしても、それは紛れもないふたりの真実だ。彼らの悲しみは、彼らだけのものだ。その痛みや苦しみを、過保護かつヒステリーに糾弾することがファンの役目だと勘違いしているかのような姿は正直、ファンから見ても見苦しい。

  例えばレギュラー番組や番宣等の内容に対して、ファンが「なに今の言葉! 酷い!」「その態度はおかしい」と思ったからといって、当の本人たちがそう感じているとは限らないことを知っておくべきだろう。

 どんな言葉を並べようとも、所詮ファンなんてタレントの『本当のこと』など知りはしない。永遠に。こう書いてしまうと実に冷たく感じられるだろうが。光一さんと剛さんのことをどんなに好きだろうがなんだろうが、ファンは彼らと実際に面識もない話したことすらない赤の他人だ。何も知りはしないくせに外野の人間が、ちょっとばかり気に入らない側面を見たからといって、ふたりの関係性に口を出す権利など最初からない。

 そして芸能界とは、 私たち一般人の日常を送っている『社会』よりも更に独特であり、ある種、厳しい。文字通り綺麗事だけでは生きていけない世界なのだ。薄いマジックミラーの膜が貼られた芸能界の内側では、多少の理不尽にも、ぐっと堪える忍耐とそれバネにする強靭なエネルギーがなければ、その人は実力の有無にかかわらず潰えていく。その事実に納得いかないファンもいるかもしれないが、そういうものなのだ。割りきるしかない。逆に、割りきることのできる一定のしたたかさを彼らは持っているはずだ。

 彼らは意思のない人形ではないのだから、芸能人としての制限こそ大きくあれど自分で考え地に足をつけて生きている。彼らは脆くたって強い。自分の目の前の壁くらい、全力で突破し壊してきたのだと分かる姿を、私たちは何度もこの目で見てきたはずだ。彼らを侮ってはいけない。

 

 私は人間は多面体のようなものだと思っている。だから、他人から見たその人の姿が『全て』ではない、ということを理解し肝に銘じなければならない。実際に接する機会のほとんどない芸能人に対してだと、なおさら。それが出来ないタイプの人が過剰に反応してしまうのかなぁ、とぼんやり思う。

 人は紙のように裏表では量れないのだ。

 

 楽しいばかりではなくてもそれが当たり前。人生はそんなもんだ。それでも、たった一瞬の誰かの喜びのためならば、時には青白い顔でそれでも健気に笑う相方のためならば、100の傷を越えられたりしたのだろう。ただの憶測でしかないけれど、きっと。

 

ふたりへ願う以上のこと。

「どこが好きなの?」「どっちが好きなの?」KinKi Kidsのファンだという話題になるとそう問われる場面が少なからずある。

KinKiは二人しかいないので、ファンに対しての興味が其方へ向かうのは致し方ないことなのだろう。問題は、わたしが大抵その質問に対して即座に 具体例を挙げる術をもっていないことだった。いつも一瞬返答に詰まってしまうのだ、どう答えるべきか。何故なら自分にとって彼らに優劣もなければ上下もな いからだ。そうして少し考えた後に決まって口をつくのは「(良いところも悪いところも含めて)全部だよ」「ふたりとも同じように好きだよ」という言葉だけ だ。

 

好きなところを聞かれても、上手く言葉で表すことができないのはファン失格なのだろうか。好きなところは上手く思い浮かばかないが、『わたしの思う彼らのいいなと思うところ』なら、胸を張って挙げることができる。

歌声、二人のハーモニー、ダンスが素晴らしいこと、努力家なところ、賢いところ、面白いところ、不器用な優しさ、根性……書ききれないくらい、数え きれないほど。もう、それさえ自分の胸にあるのならそれでいいのかもしれないと納得することにした。我ながら呆れるくらい自己満足で利己的な自覚はある が、選べないものは選べないし分からないものは分からない。

 

そんなわたしがファンとして彼らに対して願うものはなんだろう。

例えばKinKi Kidsの活動を増やしてほしいだとか。歌番組や先輩後輩の番組への出演、以前の冠番組の復活と新たな番組のはじまり、ふたりでドラマ出演、全国ツアー、シングルとアルバムの発売……物理的には山ほどある。

けれど、もっとずっと突き詰めて考えたなら、答えは違った。本当はそんなことは二の次なのだ。

 

ふたりから発せられるものであれば涙も苦悩もなにもかも受け止めたいし、『自分』の痛みを隠してほしくない。どんな姿容も愛おしいけれど、泣き顔や 切ない表情を見るのは切なくて堪らなくて、心が痛い。溜めこんで苦しむくらいなら何もかも曝け出してくれればいいのに、と思いながらも哀しむところは見た くない……そんな欲深い矛盾を抱えながらも思うことは。

『光一さんと剛くんのふたりが、一秒でも長く心からの笑顔でいられますように。心身ともに健康でいられますように、ふたりが何のしがらみもなく生きて、ふたりが隣で微笑みあっていられますように』

 わたしが彼らに願うことは、やはりと言うべきか、ただひたすらにそれだけだった。それ以上のものはない。これはもしかすると願い以上の祈りなのかもしれない。

 

芸能界で長く生きる彼らだって、エンターテイナーではあるが、いち社会人でありそれ以前にたった一人の人間だ。そういう星の下に生まれ落ちていると はいえ、怒ることもあれば心から笑えない日も当然あるはずで。強い責任感の奥底で「疲れた、もうやってらんねぇよ」と思う日もなくはないだろう。

それを察していながら心からの笑顔を望むのは酷く自分本意であることはわかっているけれど、思わずにはいられないのだ。きっとファンの性であり業なのだろうなぁ。

 

だってしょうがないじゃない。ふたりの笑顔はとても綺麗で素敵で、本当に愛おしいんだもの。彼らの無邪気な微笑みを守り見つめていられるのなら、その為なら、わたしは何にでもなれる。自分に出来ることはなんだってしたい。

 

同じ空の下の、この場所でそう願いながら祈りながら、要望という名の想いを綴ったハガキをバッグにしまって、ポストへ向かう。

わたしは今日も……いや、いつだって、光一さんと剛さんの笑顔に逢いたい。

 

きれいな、花の枯らし方。

人には様々な心があるけれど、『好き』の感情は花に似ている……と、ふと思うことがある。

芽吹いて、成長して花が咲く。綺麗なときを経たあとで枯れ散って地に還る。

 

そんなことをぼんやりと考えていたら、KinKi Kidsのことが自然と脳裏に浮かんだ。

自分自身はもしかしたら少しだけ特殊なのかもしれないが、昔から『好き』がどんどん増えていくタイプだった。一度気に入ったものやハマった作品は、ずっと好きなままで。

勿論その時々の精神状態や環境で左右することはあって、そういう時は無意識に熱量が抑えられる。そうしてただ優先順位が入れ替わるだけ。それだけ。

こんな生き方をしていて、大事なもの・好きなものが両腕に抱えきれなくなったら一体どうなるのだろう、なんて考えたこともあったけれど、きっとその時はその時の自分がなんとかするのだろう。

 

そんなわけで、白状すると今までの人生において、365日24時間ずっとKinKiへの『好き』や関心が『一番』だったかと問われれば、きっとそうではない。(事あるごとに気にかけてはいたが)

けれど、彼らには不思議な引力があるのではないかと思ってしまうほど、何の抵抗もなく元の場所へ引き寄せられる。今はもう優先順位が入れ替わっている時ですら、膨大な熱量をもって、大好きだ。

彼らが一秒でも長く笑顔でいてくれたなら、わたしは幸せだと思えるほどに。

 

わたしはこうだけど、では他の人はどうなのだろう……?

そう考えた時、年末年始に行われた『KinKi Kids concert 2015-2016』の元日公演での、剛さんのアンコールでの言葉が浮かんだ。

「光一派、剛派とか、しょうもないことではなく、KinKi Kidsを愛してほしい」そんな類の言葉。

 元々ひとつだったはずのKinKiファン。その中で剛さんが触れたように、いつの間にか決定的に道を違えてしまった人たちがいる。その事実は確かに現実に横たわっている。

その人たちはKinKiへの『好き』が枯れていってしまったのだろうか。

 

年齢と共に、環境の流れで、趣味が変わって……様々な理由で自然に『好きの花』が枯れ散っていく、そのさようならは生きていたら誰にでも一度は訪れるものだろう。

その人の自由だし、止める権利も術もない。

ただ、それだけが理由ならばあそこまで辛辣で執着とも捉えられる言動をするだろうか? 他に何か理由があったのではないか。もしかしたら、きっかけがあって、まだまだ枯れる気配もない『好き』を無理矢理もぎ取ってしまわざるをえなかったのではないか? もしそうなのだとしたら、余程のことだったはずだ。彼らふたり(もしくはどちらか一人)に憎しみに近いものすら抱いてしまうほどの事が……。

 

非常に個人的な印象だけれど、通常、人間は憎しみや怒りの感情を長く抱えたままではいられないように出来ているのではないかと思うことが多々あって。そして怒りや憎しみは悲しみや寂しさと似ていると常々感じていて。

そういったことを整理すると、「あぁ、あの人たちはこんなにも長い間、KinKiや剛くんや光一さんに対して、今までずっとずっと何かが哀しかったんだ。どこかが寂しかった んだ。それをいまだに認めて抱きしめてあげられないから許せないから、自分自身でも気持ちを持て余しているのかもしれない」と、ストン、と心に落ちた。

自分の好きだったものを不本意に好きでいられなくなって、それでも、もう戻すことが出来ないそれを捨てることすらできなくて、それが痛くて苦しくて泣きたくてたまらずに彼らへ矛先が向かった。そんな気がした。

 本当のことは知らない。あくまでただの憶測でしかない。自分以外の人の心の内が分かるわけがない(分かった気になるつもりもない)けれど。

きっと心のいちばん柔らかい場所が傷ついたのだ。

 

だからといって、誰かを言葉の暴力で打ちのめそうとしていい理由と言い訳にはならない。わたしにとって大切なKinKiを否定し、ふたりが傷つけられる……そんなことはあってはならない。どんな事情があろうともそれだけは決して許容できないけれど。

ここまでつらつらと書き連ねてきたが、結局なにが言いたいのかというと……正直自分でもよく分からない。次に考え時は違うところに考えが行きつくのかもしれないなぁ。

 

もしもいつか、自分の中の何かの『好きの花』が枯れる時がきたら、綺麗に、自然に散らせてあげようと思う。ドライフラワーにして宝もの箱にしまっておけるようにするのもいいな。それまではただひたすら大事に大事に胸を張って誇って愛していよう。

そうじゃないとあまりにも、それまでずっと幸せと笑顔をくれていた、あなたにとても恥ずかしいから。

 

そうは言っても、今のところ、自分の中に芽吹き咲き誇るこの花たちが枯れる気配はないけれど。今日もまた、わたしの心に『好き』が増えていく。愛がゆっくりゆっくり長い時間をかけて咲いていく。

それはとてもとても幸せなことなのだと改めて気づいた、冬の夜。

 

最初の一歩。

好きな人やものについて誰かとお話が出来るツイッターやブログはあるし、今でも更新している。

(わたしはKinKi KidsSMAP・嵐・タッキー&翼の皆さん(だけではなく幅広いですが)のことが大好きで、その煌めきに魅せられているファンの一人です。同時に子供の頃から大のアニメ好き……最近の世間一般のイメージではオタクと称される者でもあります)

それはとても楽しくて居心地がいいのだけれど、ふとした瞬間に湧きあがる感情や想いを書き連ねるのはついつい身構えてしまう……。そんな時、今までは心をそのまま胸にしまってきました。

 

けれども最近、自分の想いや感情。そのようなものを記録として、記憶として、活字として残しておきたいと思うようになった。

些細なことかもしれない、自分の中では重く暗い話題かもしれない、酷く偏った思考かもしれない。それでも「この時、こんなふうに考えていたんだなぁ」と、いつかどこかで振り返る時の為の道標として。

そういった意味を込めてでこのブログを開設しました。

 

自分自身を偽らず、心のままに、愛のままに言葉を重ねていきたいなぁ。

それはすごく難しい事柄のひとつではあるのだけれど。